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#87-3=「アベンジャーズ」がMCU第Ⅰ期前半の代表作になった10の理由はこれだ!=中編

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昨日に続く今日の永久欠番化記事は、2012年8月31日付けでシネマナビ・ブログに掲載した<「アベンジャーズ」がマーベル最高作品となった10の理由はこれだ!=中編>である。 



 【理由④=「戦争映画」化を貫徹しながら、ラヴ・ストーリー色を適度にトッピング】
本作の監督に抜擢されたジョス・ウェドンにとって、スペクタクル大作は初挑戦だったが、これまでのスーパーヒーロー物とは違う作品とするための彼のコンセプトは、「戦争映画」だった。


スーパーヒーロー物映画のコンセプトは、サム・ライミ監督版の「スパイダーマン」を例に採るのが一番分かり易いが、基本は、スーパーヒーローとヴィランとの一対一の対決である。
「スパイダーマン」の第1作でのグリーンゴブリンとの戦い、第2作でのドック・オクとの戦いは、この基本パターンに乗っ取ったもので、敵キャラの個性と武器が、観客にとって戦いの興味のすべてであったと言ってよい。


だが、このパターンを続けると、ストーリー展開の変化に限界があり、観客に飽きられることになる。
そこでバリエーションとして、スーパーヒーローが同時に2人のヴィランとの戦いを余儀なくされるという状況が生み出された。
さらに、そのバリーエーションの別バージョンとして、これまで敵であったヴィランがスーパーヒーローを助け、二対二の戦いとなってスケールアップするという手が考え出された。


ここまで言うと、「スパイダーマン3」には、この3つのパターンがすべて盛り込まれていたことに気がつく。
そう、同作において、スパイダーマンは、まず父を殺されたと誤解したハリー・オズボーンが変身したニュー・ゴブリンと戦う。
その戦いでハリーが記憶を失っている間に、スパイダーマンは、新たに生まれたヴィランであるサンドマンと対決する。
ここまでは一対一の基本パターンだ。


そして、フリーのカメラマンとしてのライバルであったエディがヴェノムに変身し、ハリーも記憶を取り戻す。

ヴェノムはサンドマンと組むことになるが、これにハリーが加わると、一対三となり、さすがのスパイダーマンにも勝ち目はない。
クライマックス、スパイダーマンがヴェノムとサンドマンを相手にして苦戦を強いられているところにニュー・ゴブリンが現れて、スパイダーマンに加勢する。


これに対して、「アベンジャーズ」は、アイアンマンをはじめ6名のスーパーヒーローたちからなるが、個性や信条はバラバラだ。

彼らをバックアップするS.H.I.E.L.D.も本部を破壊され、唯一の移動兵器である航空母艦ヘリキャリアもエンジンが停止し、青息吐息の状態に陥る。


対する敵のロキとエイリアン軍団チタウリも野合軍であったが、超強力な兵器であるコズミック・キューブを手中に収めていた。


ジョス・ウェドン監督は、これまでのスーパーヒーロー物の公式を乗り越える方法として、ニューヨークを戦場に選び、世界を代表する大都市が瓦礫と化す危機に見舞われる一大市街戦として描くことにした。
そして、いわば多国籍混成軍であるアベンジャーズが、最後には一致団結して、強力な敵を宇宙に撃退するダイナミックな戦争映画を基本コンセプトに据えたのだった。


その意味で、メンバーが役割分担と連携をきっちりと行うニューヨークの市街戦に至る前段の物語は、スーパーヒーロー同士、スーパーヒーローとS.H.I.E.L.D.のメンバーたちとの確執のドラマと言ってよい。
この前段の部分は、元々、脚本家であるジョス・ウェドンの得意とするところであったが、クライマックスのスペクタクル・シーンの演出は初めての経験であった。


だが、監督はプロデューサーを含むスタッフと議論を重ねて、それまでの自らのポリシーであった理屈っぽさを捨てて、ビジュアル重視の迫力ある見せ方を優先した。

この思い切りの良さが、同じくシカゴの市街地を戦場として選んだ「トランスフォーマー/ダークサイド・ムーン」の中途半端さを乗り越える原動力となったと思う。


そうした考えのジョス・ウェドンにとって、個々のスーパーヒーロー映画にとって重要な要素となったラヴ・ストーリーの側面は不純物であった。
正確に言うと、ジョス・ウェドンにとって個々のスーパーヒーロー映画で既に語られたことを盛り込むことは、新しい観客にとっては馴染めない要素であり、説明的な部分が増えてストーリー展開の勢いを殺ぐことになると考え、恋人だけでなく、サブキャラ自体を極力、登場させないことにした。
その方が、それぞれのスーパーヒーローの孤独感も深まり、戦いに向けたドラマが純化されると考えたようだ。


だが、トニー・スタークを演じたロバート・ダウニィJr.のたっての希望で、彼の恋人のペッパーだけが登場し、お互いに相手のことを心配するシーンが挿入されることになった。
これは、トニーだけが自分勝手なスーパーヒーローとして目立つことをロバートが嫌ったからのようだが、確かに本作のヴィランとしてロキが選ばれたことから、ソーは「マイティ・ソー」の時のような俺様キャラが影を潜め、弟との確執・愛憎に苦しむ様子が前面に出ている。


結果として、ニューヨークに建設されたスターク・タワーが重要な舞台となったことや、過去にペッパーと苦労を共にした関係があるコールソンがキーパーソンとなったこととうまく結びつくことになり、ヒロインとして彼女だけが登場することに不自然さはまったくない。
トニー・スタークの人間性だけでなく、作品のエモーショナルな面にとっても、むしろ好ましい効果をもたらしたと思う。


【理由⑤=ヒーローたちの性格や強み・弱みをうまくミックスしたストーリーテリング】
大きく捉えれば、本作も、個々のスーパーヒーロー作品のシリーズの一翼を担うものである。
本作で初めて個々のスーパーヒーローを知って、それぞれの単独の物語に遡る映画ファンもいるだろうが、ジョス・ウェドン監督が脚本を書く上で一番腐心したのが、単独の物語でこれまで描かれた情報をどこまで盛り込むかという匙加減だった。


ジョス・ウェドンは、単独の物語のファンも新しいファンもどちらも楽しめる二兎を追い、その際どい作戦を成功させていると思う。
その結果、新しいファンは、過去のスーパーヒーロー作品を振り返ることになったし、元々のファンは、過去作の情報と組み合わせて、今後の展開を予想するという建設的な楽しみ方ができたのではないか。


この点、シリーズ作が陥りやすいのが、コアなファンを重視するあまり、過去作とのリンクを盛り込み過ぎて、新しいファンにとって敷居が高くなり過ぎることであるが、そうしたミスを本作は犯していないと言ってよい。
理由②として指摘した点と相俟って、新しいファンは、ストーリーの展開を理解することに専念できたのではないか。


そうした中で、ジョス・ウェドンの脚本家としての力量が一番、発揮されたのが、特にクライマックスのニューヨークでの激戦に至るまでのスーパーヒーローたちの軋轢をそれぞれの性格や強み・弱みを絡ませて、バランスよく描くということであった。
クライマックスでは、アイアンマンにパワードスーツの新型を用意して、地球の危機を救うという一番の見せ場を与えたが、エネルギーを使い果たした彼を受け止める役をハルクに用意した。


そのニューヨークでの決戦では、地上戦での指揮命令役をキャプテン・アメリカに用意したが、アイアンマンと違って元々、ニューヨークっ子であるにも拘わらず、過去から復活して間がないため現代のニューヨークでの知名度が低い彼のことをニューヨーク市警の警官たちが知らないという場面も登場させた。


前半では、ロキを巡るスーパーヒーローたち同士の争いの場面で、それぞれの性格やヒーローとしての強みなども垣間見せたり、S.H.I.E.L.D.だけでなく、スーパーヒーローにとっても最後の砦となるヘリキャリアの4つのエンジンの相次ぐトラブルでは、アンアンマンが科学技術者としての手腕を発揮しつつ、縁下の力持ち的な汚れ役も買って出るようにした。


さらには、70年の長い眠りから覚めて、時代の進歩から取り残されているという不安を抱えるキャプテン・アメリカの様子も、自分のユニフォームが時代がかっていると気にしたり、ロキの強力な武器であるコズミック・スピアを「オズと魔法使い」の杖に譬えさせるといった、さり気ない演出に止めた。


また、怒りでハルクに変身することを恐れて、アメリカから遠く離れたインドに身を隠していたブルースを迎えに行かせる役をブラック・ウィドウに与え、彼女の過去を垣間見せるとともに、ラスト・カットに至るまで、ホークアイとの訳ありの過去をチラつかせた

もっとも、この演出は、続編での展開よりも2人のスピンアウト作品への期待を抱かせたのだったが、それが実現しなかった以上、加点要素から除外したい。


【理由⑥=サブキャラの新登場を最小限に抑え、映画独自のサブキャラをクローズアップ】
この問題は、上記の④で触れたことでもあるが、サブキャラの新登場を最小限に抑えることができたのは、何と言っても、今回のヴィランの首謀者を「マイティ・ソー」で初登場したロキに設定したからだろう。


そして、「アイアンマン2」で重要な役割を担ったブラック・ウィドウに対して、「マイティ・ソー」で顔を見せたと言っても、実質、カメオ出演に過ぎなかったホークアイと共に、冒頭いきなりロキに洗脳されるS.H.I.E.L.D.のコズミック・キューブ担当の科学者を、「マイティ・ソー」の重要なサブキャラであったセルヴィグ教授としたことも、過度な説明を省略することを可能とした。


このように群像劇やオールスター映画にありがちのキャラクターの錯綜を避けつつ、スーパーヒーローの実質的なまとめ役を、アイアンマンでもキャプテン・アメリカでもなく、さらにはS.H.I.E.L.D.の長官ニック・フューリーでもなく、単なる古参のエージェントに過ぎないフィル・コールソンとしたのは、私にとって盲点を突かれた設定であった。


そのことに驚いた以前からのマーベル作品のファンも、私と同様、彼が初登場した「アイアンマン」以降の作品を観直すことにより、手い設定を考え出したジョス・ウェドン監督の知恵というよりも、感性に感心することになった。


このコールソンの歩みは、ドラマチックナビ・ブログに掲載した2部作の記事「サブキャラのエージェント、フィル・コールソンがヒーローになるまでの道のり」として整理したが、再公開するかどうかは未定である。(先日、BSの無料チャンネル「ディーライフ」においてシーズン3がスタートしたスピンオフドラマ・シリーズ「エージェント・オブ・シールド」の内容を書き加える必要があるため負担が大きい。)


〔ボーナス・トラック②=「スパイダーマン」とのリンクは、クライマックスの市街戦のロケ地〕
今回、作品の舞台がニューヨークとなったことで、「スパイダーマン」とのリンクを見つけようとしたファンがいたのではないか。
私も、その1人だが、1つはスターク・タワーが建てられた場所との関係について、ドラマチックナビ・ブログの記事「マンハッタンで一番美しいビルは、恋愛映画だけでなくアクション映画の象徴にもなった!」証拠写真となる画像付きで解説した。


もう1つは、本作のクライマックスのマンハッタンでの市街戦のシーンが、クリーブランドで撮影されたという点である。
映画の街・ロサンゼルスと同様、ニューヨークも映画の撮影に協力的な街だが、さすがに長時間、幹線道路を封鎖してのカーアクションや市街戦の撮影を行うことは不可能である。
このため、本作の場合は、オハイオ州のクリーブランドのダウンタウン東9番街を4週間も封鎖して、ニューヨーク42番街を再現したとのことだ。

市当局にとっては街づくりの頭痛の種だが、映画の製作陣にとって好都合であったのが、この道路沿いの店がほとんど空き店舗で、プロダクション・デザインの担当者は、店の模様替えを容易に行うことができたという。

そして、このクリーブランドをニューヨークに見立てたアクション・シーンの撮影は、マーベル・スタジオにとっては既に経験済みのことであった。


そう、「スパイダーマン3」の前半のハイライト・シーンであるサンドマンが現金輸送車を襲った時にスパイダーマンと戦うカーアクション・シーンが、ニューヨークでは撮影できなかったために、セカンド・ユニットのチームはクリーブランドで撮影したのだった。
この時は、同市の繁華街の7区画の道路を長時間、封鎖し、ユークリッド通りを中心にスタントによるアクション・シーンの撮影が敢行されたことが、DVD収録の音声解説で明かされている。


同市がロケ地として選ばれた理由は、ニューヨークとほぼ同じ時期に市街地が形成されたからということで、そうした点や「スパイダーマン3」での実績が、今回の市当局との調整でも役に立ったと推測される。


to be continued


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